『ハオ様はいつだってお前のことばかり気にする。いつもいつも、お前のことばかり口にするんだ!』

ちがう。
ちがうよ。
わたしがあの人を好きではないように、あの人も、わたしを見ているわけじゃ、ない。

あの人が求めているのは、遠い遠い、もうずっと遠くにいる、あの女性。

――――だからお願い。
そんな目で、見ないで。
わたしを、疑わないで。


のどが熱い。
目の前がちかちかする。
声が出ない。
締め付けられる。
息ができない。

ちがう、ちがうの。
わたしが好きなのは―――










□■□










緩やかに晴れ渡った青空に、間欠泉から噴出した飛沫がきらきらと散っていく。
その日、一行が辿り着いたのは温泉街だった。
日本を意識しているのか、露店に並ぶ湯気の立つ温泉まんじゅうに、和服姿の白人たちの姿もちらほらと見える。
だが和風と謳いながらもどこか微妙にずれているのは、気のせいではないだろう。

蓮達が決めた宿も、純日本風が売りらしいがどこをどう見てもちょっと違う。
大体、客引きの女性が来ているのはチャイナドレスである。

(まったく、中途半端に真似おって…商売する気があるのかこいつら)

明らかにスリットに釣られたらしい竜と、余り深く考えていない葉の後をついていきながら、蓮はひとり嘆息する。
それとも欧米人にとっては、アジア人の文化などすべて十把一絡げに見えるのだろうか。

そう釈然としない表情で黙り込む蓮の横を、スッと通り抜ける影があった。
――――だった。

「……!」

首元に巻かれた包帯が痛々しい。
知らずに、息を呑む。目が釘付けになる。
葉の後を追うように駆けていくその背に――――あの日の残像が甦る。

『お前なんかがハオ様の妻だったなんて、僕は絶対認めない―――!!』
『ちがう、ちがうちがうちがう! わたし、あの人のこと好きなんかじゃない! 好きじゃない! 違う!』

また、ざわざわと胸の奥が疼く。
彼女の声が、どうしても、耳から離れない。

妻、と。
あの少年は言ったのだ。
何だそれは。
…何なのだ。

けれど、あのやり取りを聞いたとき、蓮の中に広がったのは驚きよりもまず――――違和感だった。
一見繋がっているように聞こえながら、どこかが食い違っている、アシルとの会話。
「お前はハオ様の妻」そう告げるアシルに対して、は「わたしはあの人のことなんか好きじゃない」と答えた。
微妙に、噛み合っていないのだ。
普通なら、の答えは「それは一体どういうこと」という、相手の真意を尋ねる意味の言葉になるのではないだろうか。
そう、本当に彼女が―――アシルの発言について何の覚えもないのであれば。

は、)

―――――何かを、知っている?

そう感じた途端、なぜか小さな痛みを覚える。
自分のあずかり知らぬところで、何かが、確実に始まっている予感。

(…それが気に入らないのか?)

だからこんなに…気持ちの据わりが悪いのか。
何故。
何故?



繋がりを絶とうとしたのは自分なのに?



視線の先で、が葉と二言三言交わしている。
アシルのことがあってから―――明らかに彼女から、覇気が抜け落ちていた。

また揺らぐ。
心が、揺らいでしまう。

俺が求めているのは―――いったい、何なのだろう

(………駄目だ)

それは、決して考えてはいけないことだ。
自分で決めた未来のために。
守りたい、叶えたい願いのために。
そして、
―――――彼女のために。

…自分の気持ちが揺らいで、迷子になっているだなんて

それを肯定しようものなら、その為に払ってきた代償が、選んできた道が―――――彼女の、涙が。
すべて、意味のないものとなってしまう。

自分が揺らぐことによって、無意味になどしたくない。自分で決めた事だというのに、そんなの、自分勝手にも程がある。
彼女はこれから、傷ついたなら傷ついた分だけ報われなければならない。
そう今までよりも―――自分といたこれまでよりも、彼女はもっともっと、傷つかない、柔らかな未来に包まれなければならないのだ。

その為に…守りたいから、距離を置いたのだから
振り返るな。迷うな。悔やむな。
すべては彼女のために。



だから―――――この気持ちが晴れないのは、きっと。
自分の手の届かないところに、彼女が行ってしまうような感じがしたから、ではないのだ。
もっと違うところに原因がある、そうに違いないのだ。

きっと、
きっと。










夕闇に包まれる山の影。静かな麓にその宿はあった。
そこはさすがに温泉宿というべきか、その絶景を望む位置に露天風呂は設置されていた。
湯気で火照った頬を、外気の風がそっと撫でていく。

「―――いったい、彼らは何者なんだ? ハオの、何を知っているんだ…」

しん、とリゼルグの声が響く。
宿に到着して。
なんだかんだと騒ぎながらも、皆、気にしていたのは――――同じだったようだ。ただ、言葉にする機会を掴めなかっただけで。
その空気の中、口火を切ったのがリゼルグだった。
ハオについて。
X-LAWSについて。
彼らの思惑について。

蓮は視線を湯へ落とす。
は今、部屋にいる。
混浴だと知った途端、一気にそわそわし出した竜やホロホロを宥めながら、葉が尋ねたのだ。
オイラ達は後で入るから、おまえ先に入ったらどうだ、と。
―――すると。

返ってきたのは―――――余りにも、弱弱しい、笑み。

『うん…大丈夫。みんな、さき、入って』

疲れている。それは、わかる。あんな戦いのあとだ。
けれどそれ以上に…どこか余所余所しい、距離を置くような笑顔。
そして彼女は、葉がそのあとの言葉を続ける前に、部屋へと入ってしまった。

「――――何故葉くんのことも、ハオの子孫だって…」
「それだよ、胡散臭ェのは。子孫、だなんてよ」

竜がため息をつきながら言った。
ホロホロも頷く。

「ハオも、葉と同じくらいの歳だもんなあ」
「どう考えたって、計算合わねェだろ」
「そうだけど、何故ハオは、葉くんに関わろうとするんだ。手下を差し向けたり、もっと強くなれと言ってみたり…」

疑問は後から後から湧いてくるのだ。
それほどに不可解なことが多すぎて。

「…当の本人は、どう思っているんだ?」

蓮は、隣でのんびり湯に浸かっている本人に尋ねてみた。
外野同士が推測だけでものを言っていても仕方ないと、そう判断してのことだった。

が。

「……わからん」

いつもののんびりとした口調で、葉は答えた。
リゼルグが唖然とする。

「わからん、って…」
「考えてもわからんのだから、しょうがない。第一シャーマンファイトが始まるまで、オイラはハオの事なんて知らなかったしな。ちょっかいを出して来たら相手はするけど、とりあえず、ほっとこう」
「そんないい加減な、」

リゼルグが、言い募る。
けれども葉は―――本当にどこまでも、いつも通りで。

ハオの意図を掴むことよりも、X-LAWSと手を組むことよりも、
それよりもまずしなければならないのは――――忘れてはならない、当初の目的。
パッチ村へ、辿り着くこと。

そう、彼は言ったのだ。
少しばかり苦笑いを浮かべながら。

「…いろいろ考えると疲れるしな」

「………」

蓮は黙って、緩やかに笑う葉の横顔を見つめた。
なんて奴だろう。
面倒臭がりで、呑気で、けれどもこんな状況にあっても決して揺らがず、どっしりと構え――――そしてそれが仲間に伝わって、その場の雰囲気が和らぐのだ。
答えの出ないものを、深く勘ぐり過ぎても仕方がない。
それよりも、前へ進むことを。
それを思い出させてくれる空気を、彼は確かに持っていた。

(揺らがない、意志)

自分にこそ必要なものだ。
強い意志。
折れない心。
の為にも――――シャーマンキングになる為にも。

のことも」

ふと、葉がぽつりと呟いた。
再び皆しんと静まり返る。

「もしかしたら―――あいつは、何か知っているのかもしれん。でも…何も知らないかもしれん。そこらへんのことは本人にしかわからんし、たとえオイラ達が訊いたところで、あいつが話す気にならなきゃ仕方ねえ。



 ―――だから…今は信じるしかないんよ。あいつはオイラ達の仲間だ。今までのあいつをオイラ達はちゃんと知ってる、だからが自分から話そうと思うまで」



“待っていてやればいい。”

そうはっきりと告げる葉の瞳は、どこまでも穏やかで。

「…そうだな」

ホロホロが小さく頷く。

本当はもう誰もが気付いていたのだ。
と、ハオとの何らかの関係性に。
そして彼女が、何かを――――知っているかもしれないという、可能性に。

けれどそれを直接口にすることは、出来なかった。
彼女に尋ねるのは元より、そうしてしまったら最後―――何かが壊れてしまうような気がして。

でも、それでも。
この男は。

(それすらも、打ち砕いてしまうのか…)

蓮は、無性に羨ましくなった。
葉のこの性格が。
柄にもないこととわかっていながら―――それでも。










久々に味わう瓶牛乳は、なかなかのものだった。
どうやら建物の外観や従業員の服装はともかく、露天風呂といい、部品はきちんと和風を目指しているようだ。(因みに各部屋の内装はやっぱり中華っぽく、何故か壁一面に北斎のかの絵が描かれていた)
備え付けの浴衣に袖を通し、冷やされていた瓶牛乳を空けながら、蓮は息をついた。
傍らには、古びた卓球台でボールを打ち合う竜とホロホロの姿があった。

―――結局、風呂から上がった後葉がに声をかけたが、は部屋から出てこなかったらしい。

「………」

もう何本目かになる、空になった牛乳瓶を見る。
…そろそろ、捨てに行くか。
そう思い、空けた瓶を抱えて静かな廊下に出る。

外気との温度差だろうか。
窓がうっすらと白く曇っている。
ゴミ箱のぱっくりと空いた真っ暗な口に、瓶を投げ入れて。

「蓮」

不意に、声をかけられた。小さな衣擦れの音と共に。
振り返らずともわかる。

「何だ、葉」

それに対する返答は―――微かな躊躇いと逡巡の沈黙ののちに、紡がれた。

のこと、なんだが」
「………」
「…オイラが言うのも、間違ってて…ほんとうは、余計な世話なのかもしれん。でも、でもな、蓮」
「葉」

続く言葉を遮る。
葉が言葉を飲み込むのがわかった。
そこで、蓮はようやく振り返った。

「……俺は、」

けれど。
何故かそのあとは、言葉にならなくて。
相手の台詞を遮ってまで―――自分が何を言いたかったのか。それさえも、手から零れ落ちていってしまったかのように。

「俺、は…」

目線を下に落とす。
言葉が、見つからなくて。
―――気持ちも、見つからなくて。
嗚呼、これではほんとうに……迷子になってしまったみたいじゃないか。
そんなこと、あってはならないのに。

その様子に―――葉が、ぽつりと言った。

「オイラ…わからんよ」
「………」
「何で、も―――お前も。そんな、苦しそうな顔をしてるんだ」

はっと蓮は顔を上げた。
そこにあったのは、微かに泣きそうな眼をした、葉の姿。

「前にお前、オイラに言ったよな。『は俺の“物”じゃない』って。……じゃあ、お前は」

―――あいつに気持ちを、きちんと確かめたんか?

その言葉に、何故か胸がずきりと痛くなる。

「本人の意思を無視して、物扱いしたのは―――お前じゃないんか?」
「っ…」
「何で…何でも、お前も、自分の中で解決しようとしちまうんよ。どうして相手に訊かないんだ。どうして…向き合わないんだ。
 オイラ言ったじゃねえか―――言わんでも伝わる事より、言わなきゃ伝わらん事の方が多いんだって」

真っ直ぐな視線が、こちらを射抜く。
それはひどく、居心地が悪くて。
そう、それは――――後ろめたさにも、似て。

「っ、俺は」

嗚呼、やめてくれ。
これ以上、掻き乱さないでくれ。

「俺はッ……おまえが、うらやましい」
「…オイラが?」

葉が目を丸くする。

「ああ」
「なんで」

蓮は、唇を噛んだ。
気持ちがあふれて、勝手に口をついて出てくる。
止められない。

「まだまだ俺は、お前には及ばぬようだ。精神の強さ…そんなものが、今の自分の、どこにある。
 俺はもう―――どうしたらいいのか、わからない」

どうして。
何故こんなにも―――苦しいのか。
自分で決めた筈の道なのに。
どうして――

俺は、こんなにも、弱いままなんだ。

何も変わらない。
突き放して、傷つけて、
それなのに。

「――――それに対しては、オイラも、何も言えん」

葉が小さな声で告げる。

「でも」

それは、痛みを伴って、突き刺さるように。

も、蓮も。―――今のお前らは、どっちも全然、楽そうな顔じゃない」

薄暗い廊下で、壁を隔てた向こうの仲間たちのはしゃぐ声が、とても遠くに聞こえた。